ドライブ —

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──エンジンの低い唸りが、まだ眠りの残る朝の空気を震わせた。

「今日は、どこへ行こうか。」

助手席に座る彼女は、窓の外に広がるまだ柔らかい光を見つめたまま、少しだけ首をかしげた。決めていない旅。行き先を決めず、気分のままに走る――ただそれだけのことが、何より贅沢に思えた。

高速道路に乗ると、車は軽やかに流れに乗る。ガラス越しの空はやけに青く、その青さがこちらの胸の奥まで染み込んでくる。

「ねぇ、あの雲、うさぎみたいじゃない?」

そう言って彼女は、指先で空をなぞる。恋人ではない。でも、友達以上の何か。言葉にすると壊れそうで、ただ同じ空気を吸っていたかった関係。

「うさぎには見えないな。あれは…」

「何?言ってみて。」

「走り出したくてうずうずしてる猫。」

「うわ、適当。」

そう言って笑った彼女の横顔を、俺は横目でそっと盗み見た。


山へ向かうわけでも、海へ向かうわけでもない。ただハンドルを握り、気持ちのままに道を選ぶ。一本道の先がカーブに変わり、トンネルを抜けると、知らない景色が広がる。

「こういうの、好きだな。」

「何が?」

「行き先が決まってない旅。」

「俺もだ。目的地がないと、すべてが目的地になる。」

「それ、カッコつけた?」

「いや、素直な感想。」

会話は途切れても、不思議と気まずくない。その沈黙さえ旅の一部になっていた。

しばらく走ると、道の脇に古いドライブインが見えてきた。外壁は少し褪せているのに、なぜか温かい。俺たちは迷わず車を停めた。

店内に入ると、年配の店主が柔らかい声で迎えてくれる。木のテーブル、ガラス瓶に入った砂糖、昔ながらのメニュー表。どこか昭和の空気をまとったような場所。

「ホットミルクなんてあるんだ。」

彼女はそれを頼み、俺はブレンドコーヒーを頼んだ。

「落ち着くね、こういうところ。」

「知らない店に来るの、久しぶりかも。」

「誰かと、ってのは特に。」

そう言った瞬間、彼女は少しだけ目を伏せた。

俺は言葉よりも、コーヒーの湯気に目を落とした。

外へ出ると、太陽は少し高くなっていた。風が吹き抜け、どこか遠くから緑の匂いを運んでくる。

「次、海が見たい。」

「了解。」

それだけで、またエンジンをかける理由ができた。


カーナビはない。スマホも見ない。標識と太陽を頼りに走る。道は時折細くなり、また開けていく。

ふと、彼女が言った。

「ねぇ、進路決めずに走るのってさ、人生と同じだよね。」

「急にどうした。」

「だって、全部決めてしまったら、寄り道できないじゃん。」

「寄り道、してみたいんだ?」

「うん。ずっと真っ直ぐな道より、曲がりくねってても楽しければいい。」

その言葉は、まるで自分自身に向けて言っているようだった。


やがて海が見えた。砂浜へ続く小さな道に入り、車を停めた。

潮風が窓の隙間から入り、車の中の温度と音を変える。

エンジンを切ると、波の音が、鮮明に聴こえてきた。

「海だ。」

彼女は子どものようにドアを開け、砂の上に立った。スニーカー越しの砂が柔らかく沈む感覚。

「風、気持ちいい。」

俺も並んで立ち、海を眺める。水平線はどこまでも続き、太陽がきらきらと揺れている。

「ねぇ。今日みたいな日が、ずっと続けばいいのにね。」

「続かないから、特別なんじゃないか。」

彼女は一瞬だけ黙ってから、笑った。

「…そうかも。」

海辺に腰を下ろし、波音を聞きながら空を見る。

「このあと、どうするんだろうな。俺たち。」

その言葉は、海風にすぐ溶けていった。

俺たちは恋人でもなく、別れたわけでもなく、何かを始めてもいない。曖昧なまま、隣にいる。

でも、それが心地よかった。


帰り道、夕暮れが空を染めていた。車の影が長く伸び、オレンジ色の光がフロントガラスに反射する。

「ありがとう。今日、すごく楽しかった。」

「俺も。」

「また、行けるかな?」

「行けるよ。」

「本当に?」

「本当に。」

それでも、未来は約束できなかった。

車はゆっくりと街に戻り、信号が増え、人の気配が戻る。

一日だけ、世界にふたりきりだった時間は終わる。

でも消えない。

エンジン音、海の匂い、古い喫茶店のミルクの湯気、風が運んだ会話、寄り道、沈黙、そして笑顔。

全部、忘れられない。

心のどこかに、小さな旅の地図が刻まれる。

そこには、行き先を書かない余白がある。

たぶん――またいつか、その続きを描ける日が来る。

その時も、きっと同じように言うだろう。

「今日は、どこへ行こうか。」

――結末――

夜になり、街の灯りが道路に滲む頃、車はゆっくりと彼女の家の前に着いた。

シートベルトを外しながら、彼女は小さく息を吸う。

「ねぇ…今日のこと、忘れないでね。」

「忘れないよ。忘れたくても、きっと無理だ。」

ふたりは笑った。だけどその笑いには、少しだけ切なさが混じっている。

ドアを開ける前、彼女は言った。

「また誘ってくれる?行き先決めないまま、どこかへ。」

「もちろん。次は…もっと遠くまで。」

彼女はうなずき、車を降り、ほんの少しだけ振り返った。

夕方の海風のように、やわらかく。そして、何も言わずに微笑んだ。

家の明かりが灯る。窓のレースカーテンが揺れる。その向こうに彼女の姿は見えない。

エンジンをかける。ラジオから流れる曲が、少しやさしすぎて胸に染みた。

帰り道は一人だった。でも孤独じゃなかった。

助手席には、今日の風景がまだ残っている気がした。

信号が青に変わる。

そっとアクセルを踏む。

フロントガラスには街の光が流れ、バックミラーには、もう彼女の家は映らない。

だけど――

あの日の空も、海も、寄り道も、笑顔も。

全部、胸のどこかで走り続けている。

そしてきっと、またいつか同じように言う。

「今日は、どこへ行こうか。」

終わり。